メソニック協会見学記
平成27年11月28日土曜日 日本記者クラブでの定例「EverOnward会」の、形を変えての「見学会」が企画されました。今回の見学会は、戦後のボーイスカウト再建時に、最初の事務所を置いた元海軍将校クラブ「水交社」、現在の「東京メソニックビル」を見学しました。位置は東京タワーの見学者入口のすぐそばになります。
【メソニックビル】
当時の水交社は連合軍総司令部(GHQ)に接収されて米占領軍が使用していましたが、その水交社ビルに、ボーイスカウト日本連盟と東京連盟の事務所を置き、戦後の最初の事務所としています。また、今では考えられない事ですが、GHQの最高司令官マッカーサー元帥に日本ボーイスカウト連盟の名誉総長をお願いして、その名誉総長室も水交社ビル内に置かれました。
現在は水交社の建物は建て替えられて残っていませんが、マッカーサー元帥が名誉総長室として使用していた当時の家具やマントルピース等の装飾品などはそのまま残し、復元された部屋が保存されています。
今回は東京メソニック協会のご好意により、復元されたメーソンのマッカーサー名誉総長室や、ロビーの日本メーソンの初期メンバーだった三島通陽ボーイスカウト日本連盟総長や村山有日本ボーイスカウト東京連盟理事長の名誉ネームボード、メーソンの非公開儀式室などを見学しました。
【名誉ネームボード】
【スコティッシュ・ライト・ホール】
当時、東京連盟のボーイスカウトと米国ボーイスカウトとの交流は水交社ビルで度々開催され、野外での交流行事は渋谷の米軍基地ワシントンハイツ(現在のNHK、代々木公園)で開催される事がありました。交流会には米国極東連盟から、ホットドッグやアイスクリーム等のプレゼントがあって日本のスカウト達をとても喜ばせましたが、コカコーラは初めて経験する味で、日本のスカウトは最初ほとんど飲めませんでした。しかし回数が重なる内に先輩スカウト達はコーラも飲める様になり、コーク、コークと通ぶっていたそうです。EO会の常連である山口陽さんはこの日は参加出来ませんでしたが、後日、この交流集会へ参加していたとお聞きしています。
また、当時水交社ビルでは力道山が相撲を辞めてプロレスラーになるためにマットを敷き、米国人レスラーから手ほどきを受けていたり、外国人の出入りも多く、戦後歴史の一端を、垣間見る事の出来る場所であったようです。
今回のEO会の見学は、戦後の日本ボーイスカウト日本連盟がスタートした場所を見学すること、メーソンのマッカーサー元帥が日本のボーイスカウト名誉総長を受諾して、他のメーソンの皆さんと協力して支援の輪を拡げ、運動が拡がっていった事を再認識する見学会になりました。戦後、短期間で全国に数多の団が創設され、公務員や教員が責任者やリーダに就任しています。これは何か「特別な力」が働いたのだろうと、容易に想像することができます。戦後、掲揚を厳禁されていた日の丸ですが、それを最初に掲げ、さらに銀座通りをパレードまで行ったのはボーイスカウトです。当時の東京連盟責任者であった村山有さんはMPにGHQに連行され、「逮捕されるのを覚悟していたが、国旗の尊厳を知らしめる活動は良い事」と、むしろ励まされたとその著書の中で書いています。
見学後復元されたマッカーサー元帥の名誉総長室で 東京メソニック協会の竹田真也様から現在のメーソン事情などを伺いながら懇談をして解散しました。
【名誉総長室 マントルピース】
【名誉総長室 シャンデリア】
あくまでも個人的な感想ですが、メーソンは「秘密結社とでもいうよな団体と感じていました。ご案内して下さった竹田さんのお話の中に、「初期の石工時代、確かに外部に情報を漏らすと制裁をうける事があったようだ」とあり、例えばそれはピタゴラスの定理など、仕事に関する他の組合が知らぬ情報。ある意味企業情報ですね。また一時期、オカルト好きの方が入会して、誤解を招く言動もあった様子です。しかし今ではメソニックビルのある地域の自治会などもご招待、イベントなどを開催していらっしゃるとの事でした。5月連休には子どもを対象としたイベントをれいねんかいさいしていらっしゃるとの事で、私も孫娘を引き連れて参加させて頂こうかと思っています。
【メソニックビル】
当時の水交社は連合軍総司令部(GHQ)に接収されて米占領軍が使用していましたが、その水交社ビルに、ボーイスカウト日本連盟と東京連盟の事務所を置き、戦後の最初の事務所としています。また、今では考えられない事ですが、GHQの最高司令官マッカーサー元帥に日本ボーイスカウト連盟の名誉総長をお願いして、その名誉総長室も水交社ビル内に置かれました。
現在は水交社の建物は建て替えられて残っていませんが、マッカーサー元帥が名誉総長室として使用していた当時の家具やマントルピース等の装飾品などはそのまま残し、復元された部屋が保存されています。
今回は東京メソニック協会のご好意により、復元されたメーソンのマッカーサー名誉総長室や、ロビーの日本メーソンの初期メンバーだった三島通陽ボーイスカウト日本連盟総長や村山有日本ボーイスカウト東京連盟理事長の名誉ネームボード、メーソンの非公開儀式室などを見学しました。
【名誉ネームボード】
【スコティッシュ・ライト・ホール】
当時、東京連盟のボーイスカウトと米国ボーイスカウトとの交流は水交社ビルで度々開催され、野外での交流行事は渋谷の米軍基地ワシントンハイツ(現在のNHK、代々木公園)で開催される事がありました。交流会には米国極東連盟から、ホットドッグやアイスクリーム等のプレゼントがあって日本のスカウト達をとても喜ばせましたが、コカコーラは初めて経験する味で、日本のスカウトは最初ほとんど飲めませんでした。しかし回数が重なる内に先輩スカウト達はコーラも飲める様になり、コーク、コークと通ぶっていたそうです。EO会の常連である山口陽さんはこの日は参加出来ませんでしたが、後日、この交流集会へ参加していたとお聞きしています。
また、当時水交社ビルでは力道山が相撲を辞めてプロレスラーになるためにマットを敷き、米国人レスラーから手ほどきを受けていたり、外国人の出入りも多く、戦後歴史の一端を、垣間見る事の出来る場所であったようです。
今回のEO会の見学は、戦後の日本ボーイスカウト日本連盟がスタートした場所を見学すること、メーソンのマッカーサー元帥が日本のボーイスカウト名誉総長を受諾して、他のメーソンの皆さんと協力して支援の輪を拡げ、運動が拡がっていった事を再認識する見学会になりました。戦後、短期間で全国に数多の団が創設され、公務員や教員が責任者やリーダに就任しています。これは何か「特別な力」が働いたのだろうと、容易に想像することができます。戦後、掲揚を厳禁されていた日の丸ですが、それを最初に掲げ、さらに銀座通りをパレードまで行ったのはボーイスカウトです。当時の東京連盟責任者であった村山有さんはMPにGHQに連行され、「逮捕されるのを覚悟していたが、国旗の尊厳を知らしめる活動は良い事」と、むしろ励まされたとその著書の中で書いています。
見学後復元されたマッカーサー元帥の名誉総長室で 東京メソニック協会の竹田真也様から現在のメーソン事情などを伺いながら懇談をして解散しました。
【名誉総長室 マントルピース】
【名誉総長室 シャンデリア】
あくまでも個人的な感想ですが、メーソンは「秘密結社とでもいうよな団体と感じていました。ご案内して下さった竹田さんのお話の中に、「初期の石工時代、確かに外部に情報を漏らすと制裁をうける事があったようだ」とあり、例えばそれはピタゴラスの定理など、仕事に関する他の組合が知らぬ情報。ある意味企業情報ですね。また一時期、オカルト好きの方が入会して、誤解を招く言動もあった様子です。しかし今ではメソニックビルのある地域の自治会などもご招待、イベントなどを開催していらっしゃるとの事でした。5月連休には子どもを対象としたイベントをれいねんかいさいしていらっしゃるとの事で、私も孫娘を引き連れて参加させて頂こうかと思っています。
この記事へのコメント
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B
私は若い頃、世界連邦に興味を持った事があり、それでお名前を記憶していました。ボードに彫られたお名前ですぐわかったのは、村山先生、三島総長、そして東久邇のお三方のみでした