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zoom RSS 村山有とボーイスカウト(2) 一、神鏡(八咫鏡)を徽章に、日の丸行進、比島ジャンボリー

<<   作成日時 : 2006/10/16 00:00   >>

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一、神鏡(八咫鏡)を徽章に、日の丸行進、比島ジャンボリー

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 戦後、村山有はボーイスカウト運動の再建を企画し、連合軍総司令部(GHQ)と交渉したところ、占領下の最初の青少年運動として許可された。 ボーイスカウトの許可がGHQからおりたので、昭和二十二年(一九四七年)五月十七日、明治神宮外苑広場で連盟復帰の記念ラリー・営火の催しを開催した。当時は東京に五隊、横浜に一隊のみで、まだ制服の着用は許可されなかった。

 ボーイスカウトのシンボルである徽章は、戦前の少年団日本連盟の時には、日本の三種の神器である「鏡・剣・勾玉」をあしらっていた。戦後、再建時に徽章については平和国家を表す鳩を入れる意見が強かったがGHQとの交渉で、村山は「日本国民は祖先あっての日本国民であり、皇室あっての日本国民である。日本の三種の神器である「神鏡」は平和のシンボルであり、かつ自らの心を映して反省していく姿を表すものだ。」と主張、さらに、新渡戸稲造博士の『武士道』を説明してスカウト章に八咫鏡を入れる事でGHQの了解を取った。

 村山は終戦後首相になった幣原喜重郎氏と以前から親しくしていた関係で、マッカーサー総司令部との間に立って密接な使命を果していた。その関係でGHQではマッカーサー元帥みずから占領下において、日本に於ける唯一の名誉職の「ボーイスカウト名誉総長」を引き受けてくれた。

 昭和二十三年(一九四八年)一月三日、占領下で国旗掲揚がまだ許されていない時に、ボーイスカウトが戦後最初に日の丸を掲げ「日の丸行進」を実施した。皇居前広場から銀座に向かっての行進だったが、行き交う都民は万歳を叫ぶ人、合掌して拝む人、「日の丸だ!日の丸だ!」と叫んで行列と一緒に歩く人など、みんな感激の涙を流した行進だった。

 翌朝、村山有が勤務しているニッポン・タイムズ社にMPがきて、日比谷の憲兵司令部に出頭するよう言われた。連行されて行くと、GHQは「占領方針では、まだ日本の国旗の掲揚は許していないが、少年達に国旗の尊厳を教えるのは良い事で、ボーイスカウトを通じて少年たちに国旗の意義を教えてほしい。」といわれ、大きな感動をおぼえた。学習院理事長の小山直彦氏も、「日本ボーイスカウトが、占領下でも国旗を高く掲揚した事実は、将来歴史にのこる大きな功績である。」と、このことの意義を述べている。


 昭和二十九年(一九五四年)四月二十四日から、第一回フィリピンジャンボリーがマニラで開催された。日本連盟はこのジャンボリーにシーリフト計画により派遣団を送った。村山有はこのジャンボリー大会副野営長を委嘱されていた。二十四日は大会行進日であったが、当時の対日感情は最悪で万一不祥事がおきては困るので国旗を持たずに行進してほしいと言われた。しかし、派遣団副団長の村山は対日感情が悪いからこそ両国の関係を良くするために努力すべきだと主張し日の丸を持って行進する許可を得た。
 村山は「これは歴史的な行事だ。名誉にかけても立派に行進しよう」と訓示し行進の先頭に立って出発した。マニラ市の特別配慮による警察の機関銃付きジープが左右につき、たくさんの警官に守られた行進だった。初めはバカヤローなどの罵声が聞こえてきたが、マグサイサイ大統領の前でスカウトが敬礼すると万雷のような拍手がわき起こった。この日を境に、マニラ市の対日感情は一変した。国旗を持った日本のボーイスカウトは立派に日比親善の使命を果たした。行進が終わって派遣団長の三島通陽総長は駆けつけ「おめでとう。よかった」と言って涙をながし、村山や隊長の金光整雄氏の手を握った。

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