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zoom RSS 村山有とボーイスカウト

<<   作成日時 : 2006/10/15 23:43   >>

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 村山有(たもつ)はアメリカのシアトルで明治三十八年(一九〇五年)十二月二十四日生まれ、その後、サンフランシスコでボーイスカウトに出会い、そこで米国のスカウト教育を受け指導者をしていた。

 昭和十年(一九三五年)に米国は竹下勇海軍大将を団長とした在郷軍人訪米団を招待した。その時一行を迎えたのが米国国籍の村山有であった。

 昭和十六年(一九四一年)、戦時体制下、大日本少年団連盟は文部省から大日本青年団に統合するように求められ解散させられた。一方、昭和十三年(一九三八年)大日本少年団連盟海洋部から独立していた大日本海洋少年団連盟は政府の圧力にもめげずに活動を続けていたが、昭和二十年(一九四五年)六月、本土決戦のために解散命令が下された。第三代総長の竹下勇提督のもと、六月十五日、目黒区芳窪町の村山有宅にて各界の要人を集めて解散式が執り行われた。

 同年、終戦となった八月十五日、竹下提督は村山有に「米国はボーイスカウトが盛んだ、米軍が来たら出来るだけ早い機会にボーイスカウトの再建の方法を考え、青少年の訓育を考えるべきである。自分はセオドア・ルーズベルト大統領からボーイスカウトの事を教えられていた。その後、天皇陛下と英国でBPに会った。そんな機縁から大日本少年団の総長を引き受けた。ボーイスカウトの再建は、米国に通じている君に受けついでもらいたい。」と話され、再建を直接依頼された。

 村山は三島通陽氏に相談のうえ、集まる事を禁じられていた少年団の出身者を集めて、品川の森村学園で「ボーイスカウトクラブの集い」(日本オードスカウトクラブの前身)を「連合軍総司令部(GHQ)」から運動の許可が下りるまで開いて基礎を作る。

 昭和二十二年(一九四七年)五月一日再発足のために臨時中央理事会を作る。三島理事長、村山理事ほか五名の理事、総主事一名、合計八名で構成された。 昭和二十四年(一九四九年)二月十二日、ダグラス・マッカーサーを名誉総長、三島通陽氏が理事長となりボーイスカウト日本連盟結成。村山理事は関東選出地方理事となる。東京都連盟も正式結成され、村山有が同年二月十六日の理事会で初代東京都連盟理事長に推戴される。

 三島通陽氏を中心に日本のボーイスカウト運動再建のために特に働いた人々は、岡本礼一、内田二郎、関忠志、中島睦正、鳴海重和、米村輝国などの各氏である。

 岡本礼一氏は戦前は静岡県の少年団結成に努力した人で、戦後は村山と共にGHQに働きかけ、三島総長の公職追放免除に努力した。(三島氏は貴族院議員であった事などで公職追放の対象となっていた。)また、朝日新聞社の全面的な協力を得て、ボーイスカウト支援のバザーを全国各地で開催させ、ボーイスカウト運動に対する認識を全国的に高めた。なお、岡本氏は文部省に協力して、児童憲章を作った功労者でもある。

 内田二郎氏は三島総長と共に日本少年団の草分けの人で、昭和十年(一九三五年)渡米。日本少年団の団長として第一回米国ジャンボリーに行った時に、そこで村山と会っている。それ以来、付き合いが始まり、戦後、誰よりも早くボーイスカウト運動の再建を力説し尽力した。

 関忠志氏は宮内庁の役人であったが、戦後、ボーイスカウト運動に飛び込み、村山と共に銀座の交詢社ビル(山本有三氏の事務所)に陣取って千代田生命ビル接収免除の働きかけをし、日本連盟事務局の開設に献身的に働いた。全国大会の開催なども、関忠志氏の尽力によるところが大きい。

 中島睦正氏は戦前からの熱心なボーイスカウト運動者で、今のオールドスカウトの基礎を作った。

 鳴海重和氏は全米ナンバーワン・スカウト隊と言われたロサンゼルス高野山別院のボーイスカウト隊(三七九隊)出身。 米村輝国氏は東京都連盟事務局主事として活躍された。

 このような人々の大なり小なりの初期における献身的奉仕が、多くの困難があった日本のボーイスカウト運動を立派に育てたのである。

 特に三島、村山、岡本、内田、鳴海の各氏は、GHQの所属であるボーイスカウト米国連盟(BSA)のR・ダーキン氏、D・タイパー氏等と共に、昭和二十五年(一九五〇年)四月十二日から六月二十日の第一回指導者講習会(日本大学ボーイスカウト公認指導者講座)を始めとして、各講習会の講師として参加し、日本のボーイスカウトの指導者養成に努力した。
 また、彼等は、当時、占領軍の意向を打診しつつ規約等を作成した。さらに米国の「ちかい」「おきて」を日本の言葉に合うように翻訳をしている。その作業は占領下で日本の国情を理解させ、一行一句占領軍当局と論争の末作成するという並々ならぬ苦痛を伴ったものである。
 後になってその内容を批判する人がいるが『後から来て再建者の苦労を知らずに批判をする事は極めて楽だ』と村山有は書き残している。
 1952年(昭和27年)6月の年次全国総会で村山は日本連盟相談役を委嘱された。その後、村山が第一線を外れている間に苦労して入手した港区の本部が売却されたり、死去後、昭和四十八年(一九七三年)に発行された日本連盟史や昭和六十三年(一九八八年)に発行された東京連盟史にも、村山有が戦後のBS再建時、GHQとの交渉や桜樹贈呈などの大きな事業が記録に残っていない。連盟史作成時には資料も無く、歴史を知っている人が居なかった様なので今回一部をまとめてみた。

●付記  【村山有(むらやま・たもつ)略歴 明治三十八年(一九〇五年)十二月二十四日、米国シアトル市に生まれる。長野県旧制松本中学で学び、医者である母の住む桑港に渡米。サンフランシスコのローウェル・ハイスクール、ロー・カレッジで学ぶ。サンフランシスコ・クロニクル紙、同盟通信社、AP通信社、NHKなどに勤務。 戦後、ジャパン・タイムズ社に入り社会部長、渉外部長を経て退社。新聞記者生活四十年。早稲田大学講師。ボーイスカウト日本連盟理事、東京連盟副連盟長。昭和四十三年(一九六八年)十二月三十一日、香港に向かう客船にて航海中死去。享年六十三歳。昭和27年(1952年)の日本連盟相談役委嘱以来第一線より離れていたが翌年日本で開催される第十三回世界ジャンボリーの議題がでるボーイスカウト世界会議に出席する為の旅行中だった。 主要著書は『子午線南北』、『修好事始』、『アメリカ二世』、『ハワイ二世』、『世界のスカウト切手』、『世界のロータリー切手』、『林菫伯』(英文)、『出光ストーリー』(英文)ほか。
 この冊子は平成十七年十二月二十四日の「生誕百周年記念」にあたり故人の偉業の中よりボーイスカウト関係の一部を日本郵政公社の「Pスタンプ」で十枚の記念切手にして発行したものを説明した。
 昭和四十年(一九六五年)発行の『三島総長と二十年』、時事通信社より昭和四十三年(一九六八年)十二月一日発行の『終戦のころ』、昭和六十七年(一九九二年)村山誠の富士レポート「ボーイスカウトと村山有」、東京七〇隊・FSCJ会報、その他村山有所有の資料を参考にして編纂した。
 村山誠は村山有の孫で、高校二年、富士章取得の際、平成四年(一九九二年)から一年以上をかけて、個人プロジェクトで祖父の話を各先生方に面会等をしてまとめた。直接話しを伺った方は、池田徳真、石川一郎、臼井茂安、島中俊雄、白橋龍夫、下田雅、塚本清、豊島治郎、村山登美子、叔父・叔母等(敬称略・五十音順)などの各氏で二十六名の方々。 また、電話や資料等を頂いたり、アンケートの回答を頂いた方は、飯盛ゆき、石川嘉唯、猪俣農夫男、今田富士男、大石和夫、大野敬一郎、金光整雄、斉藤真仁、佐久間巳喜雄、高輪淳一、高橋圭三、中山弘之、鳴海妙子、根岸真太郎、原田憲、広瀬文一、藤山一郎、三島昌子、三島純、平井忠正、森田晃次、八木清、渡辺昭(敬称略・五十音順)などの各氏で五十二名の方々。合計七十八名になる。(提出時は四十四名)その後も継続して資料の追加をしている。 誠の父、村山至も昭和三十九年(一九六四年)「富士スカウト進級証明」を第七〇号で取得し、当時の三島通陽総長名の証明書を同年八月二十日に頂いている。現在は埼玉・杉戸二団団委員。 平成十七年(二〇〇五年)十二月二十四日 ○ 文責◎村山至】

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