村山有とボーイスカウト(12) 『三島総長と二十年』(村山有著)より抜粋

『三島総長と二十年』(村山有著)より抜粋

 昭和四十年四月二十日・・・生涯忘れられない日であった此の日の朝久留島秀三郎先生(ボーイスカウト日本連盟理事長、東京連盟長)と三島通陽総長が危篤状態を脱した事は全く奇跡であるとお互いに悦んだ。然し運命は残酷であった最早此の時、三島通陽総長は脳溢血を併発して最早絶望に陥っていた。神宮通りの伊藤病院に駆せつけた。そしてその夜八時五十分に昇天される迄の時間は長い長い時間であった。高山芳雄先生が呼吸、脈搏の様子を控室におる我々に刻々報告して下さった。久留島、古田誠一郎、池留三、小林運美、岩波信平諸氏が最後の御臨終を待った。

 三島総長の千駄ヶ谷の邸宅には一九三六年以来再三お伺いしてアメリカ二世のボーイスカウトを連れて行き歓談をした事があった。
 戦後日本少年団総長竹下勇大将の命により占領軍当局にボーイスカウト運動再建申請をして以来二十年・・・三島総長と歩んだ意義ある月日だった。一口に云って二十年であるが、占領下で総司令部当局との折衝から、スカウトクラブの事や、日本連盟組織等の幾多の苦難が走馬灯の様に脳裏を走り去った。

 総長の発病前にどうした事か、私と話された幾多の事が遺言の形で私の心の中に残ったかと思うと総長の長逝は何と云っても十年否、それ以上早かった事を痛感せずにはおられない。『ボーイスカウト運動の再建に対してあなたに深く感謝している日本は今後諸外国ともっと親しくして行かなくてはならない、しっかりやって下さい・・・』どうして総長が殊更に私に云われたのか別に気にもとめなかった。 総長の御臨終を聞きつつ、遺言と云うか最後の言葉となったのかと、過ぎ去った日々を思い出すのである。三島総長の事は多くの人々が書くと思うが、二十年間に特に感激した事等を記して見たい。

 日本の敗戦の日、・・・八月十五日夜日本少年団総長竹下勇大将は泉岳寺近くのお宅から目黒の里の私の家に疎開して来ておられた。私は米国で日米親善の為に日本の在郷軍人を米国に招待して、米国の郷軍と大いに交歓しようと提案し、一九三五年に竹下海軍大将を団長とする一行を桑港で迎えた。竹下大将は少年団総長でもあり、第一回米国ジャンボリーに行く日本少年団派遣団は内田二郎氏を団長として同行していた。竹下大将は日露戦争当時海軍武官としてワシントンにおり、ルーズベルト大統領に柔道を教えつつ日露戦争の調停に持ちこみポーツマス講和会議を実現した人であり、新渡戸博士の『武士道』を彼に与えて日本人を理解させる事に努力した人であった。桑港にはポートラ祭の折に軍艦出雲の艦長として訪問し大いに人気のあった提督である。日本に来てから非常に御親切な指導を頂いた。大東亜の激動は日本少年団の解散の運命にまで追いこんだが、竹下邸に於いて橋田文相が、少年団の解散を要請した時であった。『文部省の役人に青少年の訓育が出来るか。少年団は世界連盟につながる国際団体であるから役人共の指示はうけない』と断乎はねられた。然し時世は急変し一九四一年に少年団は解散したが、海洋少年団は存続した。

 一九四五年六月十五日・・・大日本海洋少年団解散式は私の家で竹下大将が長沢直太郎、小山武、原道太諸氏を始め多くの人々を集めて行われた。その解散式が行われた同じ場所で二ヶ月後に、竹下大将は私に米軍にボーイスカウトと言えば必ず理解するし、日本再建はボーイスカウトによる外はないとの事で、私は重大な命をうけたのであった。其後戦犯嫌疑で捕らえられたが、幸にして私の世話をしていた捕虜が立派な海軍少佐のヘンショー君であった。嫌疑は解消してマクアーサー元帥の最高副官に直結する運命となった。ボーイスカウト再建を申請し、内田二郎氏も駆けつける三島総長との再会と云う事になったのであるが、戦後歩んだ途は宿命的なものが多々ある。

 三島総長の熱情と誠意に動かされて戦後二十年の月日を歩んで来た。

 士は己を知る者の為に死す・・・と云う言葉が真実なれば、私は占領下に於て三島総長を追放からはずし、海外にまで旅行をして日本のボーイスカウト運動に全精力を注ぎ歩んで来た。三島総長が先年に『あなたは此の道に殉じられた。私は最後の努力をしたいから協力してほしい』と云われたが総ては過去の思出となってしまった。

 戦後宮内省を辞した関忠志君と二人で、三島総長の友人である山本有三氏の事務所の一隅に机をおき『さあどうするか・・・』と思案した時は、まだ昨日の様であった。関君は『日本連盟を組織するに際し、印刷物を注文したが、受取る費用がない』と悲痛な顔をしていた。私は月給を先借りして之を取った。

 当時占領軍の意向を打診しつつ規約等を作成したが後になって、内容を批判する人があったが、考えて見ると、その当時の一行一句に占領軍当局との論争あり、こぜりあいがあった。後から来て再建者の苦痛を知らず批判する事は極めて楽である。

 当初に於ける三島総長の忍従的苦心と関君の努力を私は高く評価する。千代田生命会館が接収を免除されるならば一部屋事務所に貸せるとの事で大芝居を打った。勿論後になってGHQの最高幹部と笑談中に解決をしてしまったが、今考えても大きな芸当であった。                  
(中略) 

 当時の規約等に対して心ない批判をする人々には当時の三島総長を始めとしての苦心は永久に判らないのだ。 先ずGHQ関係者は日本のボーイスカウトは米国その儘なら許可しても良いと云う処まで占領関係国の内諾を得たのであった。「ちかい」「おきて」其他全部翻訳する事となり、我々の苦闘は日夜続いたのであった。後になるとあれが悪い・・・これがいかん・・・と批判は単的に下せるが、我々の翻訳したものを、三島総長、中野忠八先生等とGHQ関係者と会議を重ねその間、日本の国情も理解させ一歩一歩築きあげたのであるから今から考えても並々ならぬものであり、よくもあれだけの情熱を傾注出来たと思う程である。

 当初の許可条件は 

 一、ユニフォームを使用しない。
 二、スカウトサインのみで敬礼はしない。
 三、号令をかけない。行進をしない。

 等であった。之ではスカウティングが出来ないが兎に角第一許可をとって、彼等に何んなものか見せようと云う事になった。 岡本礼一氏が『野球をやるにもユニフォームを着るではないか。スカウトサインのみでは駄目だ。』と強調するのでマ元帥の最高副官であるハフ大佐に詳細に説明してマ元帥に直接に持ち込んでもらった。ユニフォームの許可をとると原綿の放出を要望した。之も成功して初期のボーイスカウトのユニフォームになったのであった。

 ボーイスカウトが制服で整列した姿をみた三島総長は『日本のボーイスカウトも之で立派になりました。』と感慨深くスカウトの顔をみておられた。三島総長と歩んだ二十年・・・思出は限りなくある。
(後略)

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この記事へのコメント

稲葉@大和6
2006年10月18日 02:09
通して読みながら涙が出ました。
親父の命日に大変なものを読んでしまった(^^;)

前言(コメント)撤回します。
 #自分じゃ削除できないし~~

私に出来ることがあれば
 喜んでやらせて頂きます/(^^)
坂本正志
2006年10月19日 01:46
 親子でボーイスカウト、最近は少なくなりましたね。

 稲葉さんのお父さんは、私が20数年前に入ったシニア研修所の所長でした。11月の山中でしたが、丁度お誕生日とのことで、入所者一同で何かをプレゼントさせて頂いた記憶があります。お声を詰まらせながら、とても喜んで下さいました。

 神奈川連盟では、湘南地区の諏訪先生と共に記憶に残る方です。
Takeuchi/ T278 A.S.M. BSA
2006年10月24日 00:24
私も、稲葉先生とは、WB研修所SS課程神奈川第3期/11月3日で知り合いました。その時は、先生は隊長役でした。
 稲葉先生の命日は、実は、私の親父の誕生日なので、絶対に忘れることはありません。それと、稲葉先生の誕生日も。

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