村山有とボーイスカウト(9) 八、日本スカウト切手協会、「スカウト切手の研究」(『スカウティング』掲

八、日本スカウト切手協会、「スカウト切手の研究」(『スカウティング』掲載)

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 村山有は、戦後、中央郵便局の白石局長時代に、外国にある「切手普及部」のようなものを新設すべきと提案し、中央郵便局にようやく「切手普及部」ができた。また、切手愛好家を集め東京切手会を創立し初代会長になった。 昭和二十四年(一九四九年)にはボーイスカウト第一回全国大会の切手を発行してもらった。米国スカウト少年の写真をモデルとして木村勝技官がデザインを担当した。生存中の人物が切手のデザインに使われることは大変少ないので米国スカウト少年は後に切手収集家の間では話題になった。

 日本スカウト切手協会は米国にある世界スカウト切手協会東京支部として誕生した。村山有は世界スカウト切手協会副会長をしていた関係で東京支部の会長に就任した。
 切手収集をしている村山を三島総長は非常に評価していて、世界ジャンボリーや旅行に行く度に村山に切手とその詳しい説明を速達で送ってくれた。
 また、日本のチーフスカウト宛に送られてきたカバーなどを総長は「自分の手元におくよりも、村山のコレクションに入れたほうがいい。」と言って受け取るとすぐに村山に渡した。
 また、昭和二十九年(一九五四年)の第一回フィリピンジャンボリーの際にはマニラ市で開かれていた世界切手展に二人でおもむき、二日間も楽しんでいる。

 昭和三十二年(一九五七年)、ボーイスカウト創始五十周年記念切手の発行交渉をしたが、時間の関係で無理だった。郵政省と交渉して記念シールをつくらせた。このシールは木村勝技官がデザインを担当し、切手と同じ大蔵省印刷局で作成したもので、国際スカウト切手大会でも世界一と評価された。このシールは一シート(六枚構成)二十円で販売し、そのうちの十円を彫刻家、横江嘉純氏の「無名スカウト戦士」像の制作費に充てた。

 昭和三十七年(一九六二年)第三回日本ジャンボリー(アジア・ジャンボリー)が静岡県の御殿場で開催された時に、村山は郵政省といち早く交渉し、アジアの地図にスカウト・ハットを置いたデザインの記念切手を発行させた。
 日本連盟発行の『スカウティング』誌に「スカウト切手の研究」と題して昭和三十四年(一九五九年)二月号から昭和三十七年(一九六二年)五月号までに三十一回、連載していた。また『世界のスカウト切手』という著書を昭和四十年(一九六五年)七月に切手趣味社より発行している。

 村山が切手収集をしていた時代は、切手市場にはボーイスカウトの切手は殆ど出回ることはなく、一ドル三百六十円の時代であり、海外の切手を入手するには大変高価で難しい時代であった。

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