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zoom RSS 機関銃に守られた、ボーイスカウト日本派遣団のジャンボリー大行進

<<   作成日時 : 2014/08/20 01:01   >>

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 昭和40年4月、三島通陽第四代総長の逝去があり、村山有さ
んは、追悼の意をこめた「三島総長と二十年」と題した追悼小冊
子を発行しました。その中に、「決死の日の丸行進 マニラ市ル
ネタ公園の感激」と題した文があり、最近、この第一回フィリピ
ンジャンボリーの写真を頂きましたので、その写真をご紹介がて
ら、再度掲載致します。

 また、この「三島総長と二十年」の小冊子は、PDFにし
たものを以下のurlから入手可能です。


http://be-prepared.jp/archive/mishima.pdf


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【派遣団訓練会を訪れた三笠宮と三島通陽総長】


<村山有著【三島総長と二十年】より>
「決死の日の丸行進 マニラ市ルネタ公園の感激」

 戦後の日比関係は最悪であったと云ってよい。前比島駐日大
使ホルゲ・ヴァルガス氏とは戦前から親しくしていた。戦後ボー
イスカウトの総長となり、青少年の育成に努力していた。

 1954年(昭和29年)夏比島ボーイスカウトの第一回ジャン
ボリーに際し、ヴァルガス氏は東京に来て日比関係を好転させる
為に何うしても日本のボーイスカウト派遣団を派遣する様に要請
した。マニラ・タイムズ紙運動部長のホーキンス君は多くの日本
人新聞人や戦犯関係者を助け、日本にライオンズクラブ創始に努
力したが、彼も東京に来て日比関係を何うしても好くさせなくて
はならないと強調した。三島総長は何うしても私に行く様にすす
められた。私は比島に親友の多い事と総長と二人三脚で日比親善
に努力しようと考えておられた。彼は各方面に手紙を書いて私の
旅費作りを援助して下さった。総長は団長となり、私は副団長と
なって飛行機でマニラに飛んだ。派遣団の隊長は岡山の金光整雄
君で全国から優秀なスカウトを選抜して一足先に船でマニラに着
いていた。
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 ホーキンス君はマグサイサイ大統領と折衝して日本派遣団をマ
ニラ市内の小学校に起居させ、校長自ら日本ボーイスカウトと寝
食を共にして、危険から守ってくれていた。マニラ市内の対日感
情は極めて悪く、ボーイスカウトが町に出る時は必ず比島ボーイ
スカウトが何名か両側について「護衛」の形をとった。新聞は極
めて好意的に報道してくれたが、市民の眼は冷酷に日本の少年
達を追っていた。

比島ボーイスカウト本部は私にロータリークラブ、YMCA、
教育団体等で朝食から講演をするスケジュールを組んであり、毎
日数回比島人を前にしての戦後の日本の歩み、民主日本の姿から、
高山右近時代のマニラの日本村、ダバオの開拓等々を語った。日
を追うにつれて反響を聞く様になった。中には密かに「祖父は日
本人であった」とか親密感を示す者も出て来た。三島総長は之等
の報告を悦び、時としては自ら立って比島の人々に訴えた。私は
誠心誠意通訳をした。「ほんとうに有難う……」と両手で私の手
を握って涙を浮かべていた……。
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          (中略)

 1954年4月24日……忘れられない日であるばかりでな
く日比歴史上不滅の日でなくてはならない。敗戦以来十年振りで、
マニラ市に日章旗を高く輝かせ日本のボーイスカウトが行進した
日であった。

 ジャンボリーはケソン市郊外で行われた。新興国の意気に燃え
たつ大会であった。毎日焦げつく様な暑さであったが、4月24日
はマニラ市に出て大行進する為に、キャンプ地から出発した。

 比島官憲とボーイスカウト役員は、「対日感情が非常に悪いか
ら、大行進には各国派遣団は国旗を携行せず行進してほしい」と
云う事になった。米国は第一に賛成した。然し、対日感情が悪け
れば好転させる為に努力するのがボーイスカウトの使命であり、
日本も大会に参加している事を市民に示すべき事を強調した。
私は国旗のない行進は無意味であるから中止すべき事を主張し、
比島官憲も折れたので先頭の行進部隊はバンドの音で勇ましく
出発していた。

 幸にして共同通信特派員が来ていた為に、その自動車で国旗
をとりにやった。旗手が国旗を高くあげた時は予定よりおくれたが、
私が先頭に立ち大国旗を従え、金光隊長そして派遣団員を一列
横隊にした。機関銃をつけたジープが左右につき、ピストルを腰に
した私服警官十名が、ラクソン市長の特別配慮で警戒にあたっ
た。金光隊長以、下緊張して蒼白な顔である……
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 「本日の行進は歴史的な行事である。何が起るか解らない。誰
が遺骨となるか判らないが、諸君は堂々と行進してほしい。日本
の名誉にかけ立派にやろう……」行進開始……。
 幾万かのマニラ市民は静かに憎しみの眼を向けていた。時々日
本語で「バカヤロー!」とか、悪口が聞えて来た。警備の人々が
直ちに制止すると云う緊張というか息づまる光景であった。
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 マニラ市の中央にあるルネタ公園の大スタンドは数十万の人で
埋っていた。マグサイサイ大統領の巨躯の近くにヴァルガス氏と
並んで三島総長が立っていた。「頭!右っ!」と号令すると、日
本の派遣団は一斉に敬礼をして堂々と進んだ。万雷の如き拍手
がわいて来た。この瞬間に我々マニラ市民の心を握ったのだ―
日比親善の使命を果したのだ……一寸後を見ると日の丸は崇高
に輝いていた。行進が終わると暫くして三島総長は馳せつけて、
「諸君!おめでとう。よかった。よかった……マグサイサイ大統領
が「日本のボーイスカウトが来た―大拍手を送ろう……と云うと、
期せずして大拍手になった。之で今日迄ボーイスカウトを比島ま
で連れて来た意義があった。」そして、私の手を握って涙を流し
ていた。

 この日を境にマニラ市の対日感情は一変したと云ってもよかっ
た。大野勝巳大使もボーイスカウトの果した使命を大きく評価し
ていた。市内を歩くも以前とはちがった空気であった。「トモダ
チ」と云って握手を求めて来る有様で、三島総長がこの時程感激
し、悦ばれた事は先ずなかったであろう。決死の大行進は永遠に
記録しよう。


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1954年の第一回フィリピンジャンボリーが開催されてから4年後の1959年の比島ジャンボリーは第十回世界ジャンボリーとして開催されました。1954年のジャンボリーでは反日感情が強く機関銃で守られながらの行進でしたが1959年の比島世界ジャンボリーには日本から白山丸をチャーターして500人以上のボーイスカウトが参加しました。1954年の派遣団が決死の行進をして反日感情を「友達」に変えた結果がここに有ります
至道
2014/09/05 20:43

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